« 伊能忠敬の墓所-浅草源空寺- | Main | 再び湖南の芦浦観音寺 »

2007.04.17

大津市桐生の里

Kiryukusatsugawa_2(クリックで拡大)
        滋賀県大津市桐生の里を流れる草津川

桐生(きりゅう)というと繊維織物の産地で有名な群馬県の桐生が思い浮かぶわけであるが、滋賀県大津市の我家の近くにも桐生という地がある。どちらも古代、桐が生えていたことから桐生という地名になったのであろうか。

大津市の湖南に位置する我家の近辺も開発が進んで世帯数が急増してきたので、この4月から新しい学区が誕生した。青山学区といい、我々の新興の地区だけでなく近隣の桐生地区もこの学区に編入された。桐生の里は古代からの歴史が刻まれた地であり、新学区の文化レベル向上にも大いに寄与すると思うので個人的には大歓迎である。

住んでいる土地のことを少しは知っておかねばという、以前触れた「湖南の草津界隈」と同じ反省を動機として、未だ桜の残る桐生の里を訪れてみた。

  • 湖南の草津界隈
  • <古代の森林破壊>
    ぶらり近江のみち」というウェブサイトの中の第9回-田上(たなかみ)の山々-によると、現在湖南アルプスと呼ばれている田上や金勝(こんぜ)の山々は、持統天皇の藤原京建設(694)のときの用材で美林が伐採され、その後も東大寺などの奈良7大寺や石山寺、三井寺の建立、信楽の陶器制作燃料などで伐採が続いたため禿山になり、山麓の一帯は土石流や洪水に見舞われるようになったという。

    Hageyama(クリックで拡大)
                  現在も禿山の残る湖南アルプス

    山麓には大戸川、草津川、信楽川、野洲川、瀬田川などの河川があり、冒頭写真のように桐生の里には草津川が流れている。度重なる出水の名残りであろうか川床が高い所謂天井川である。乱伐が始まって1000年後の1660年代になって、江戸幕府が山林の伐採を禁止し、管轄する京都町奉行所に「土砂留奉行」を置いたそうである。

    田上地区の砂防工事が本格化したのは明治時代に入ってからであった。明治6(1873)年に明治政府が「淀川水源砂防法」を制定してこの地区の治山治水工事に着手した。このときオランダから招かれた砂防工事の技術者が、以前、このウェブログの「木曽三川-宝暦治水の地再訪-」で触れたヨハネス・デ・レーケである。

  • 木曽三川-宝暦治水の地再訪-
  • <オランダ堰堤(えんてい)>
    明治6年に来日したデ・レーケは木曽三川の分流工事以前に、淀川水系の砂防工事の指導にあたった。その工事の一環として、この桐生の地に彼が指導して作られたとされるオランダ堰堤と名づけられた砂防ダムがある。桐生から草津川を上流へ進み、上桐生キャンプ場を通り過ぎたところにある。

    実際の設計・施工は日本人技師田辺義三郎によって行われ、明治22(1889)年頃に完成したとされる。我国最古の割石積み堰堤で、近代的砂防工事の記念碑的存在として評価され、昭和63(1988)年に大津市の史跡に指定され、翌年には日本の産業遺産300選に選ばれたとのことである。100年以上経過した現在も立派に機能している。

    Orandaentei
            オランダ堰堤               ヨハネス・デ・レーケ胸像

    20年前に来た時にはなかったヨハネス・デ・レーケの胸像と、平成16年度土木学会選奨土木遺産のレリーフが堰堤を望む手前の道沿いに設置されている。また滋賀県森林管理署が平成13年12月に作成した案内板も道沿いに設けられており、100年以上も経った現在も機能を発揮し続けている理由を、構造面から説明してあるのが面白い。

    胸像の台座の裏面には、ヨハニス・デ・レーケによせてと題して彼の略歴が彫り込んである。それを見ると明治6(1873)年に来日して以来、淀川水系の砂防堰施工の後、木曽三川改修、利根川水系砂防堰施工、吉野川水系堰堤施工、木曽川水系堰堤施工など行って、明治36(1903)年にオランダへ帰国し、日本政府からは勲二等瑞宝章を贈られている。

    デ・レーケが係わった砂防事業で現在も残っている堰堤が列挙してあり、群馬県、長野県、富山県、岐阜県、愛知県、三重県、滋賀県、京都府、徳島県、長崎県と全国にまたがっている。この胸像は2000(平成12)年12月に(財)砂防フロンティア推進機構が建立しており、同じ胸像が生誕地のオランダ、コリンスプラートにも設置されているとある。

    しかし上の写真でも見られるように、今でも湖南アルプスの禿山はまだまだ残っている。「ぶらり近江のみち」ウェブサイトによると、琵琶湖工事事務所の資料には、緑の山に戻すには、まだ100年以上の歳月と多額の費用がかかると指摘されているそうである。

    現在も地元の小学校6校の子供達が毎年3月に2校ずつ交替で植樹をしているが、このことを知った藤原京遺跡のある、奈良県橿原市の小学生70人が1300年前の恩返しにと、平成7(1995)年に藤原京創都1300年記念事業の一環として、植樹隊員として派遣され、地元の小学生と一緒に植樹をしたとの、未来志向を感じる話も紹介されている。

    <惣兵衛と三田六池(みたろくいけ)>
    桐生の里は田園がきれいである。早春の今は休耕田であるが、やがて蓮華の花が咲き、田植えがあって緑の水田になる。新興住宅地の我家近辺からこの一帯に来ると、日本の原点に来たと感じるのは大袈裟か。しかし禿山の山麓にある桐生の地は、決して良好な農地ではなかったはずである。

    Kiryudenen
      早春の桐生の田園、遠くに比叡山       甘夏蜜柑が生る山麓の田園

    禿山になると森林による保水能力がなくなるということであるから、そのような山麓に位置する桐生の農地は、江戸時代までは日照りが続くと干魃被害をうけ、農家は困窮していた。その窮状を打開するために、惣兵衛という人物が田用水溜池築造の計画をたて実行したらしい。

    さきほどのオランダ堰堤へ行くために上桐生のキャンプ場を通るが、そのキャンプ場の一角に古い石碑が建っている。かなり風化して読みづらいが「三田六池創設者 惣兵衛之碑」と彫ってあるように見える。傍に少し新しい説明用の碑文が彫られた石版があり、こちらははっきり読み取れる。大津市のホームページには昭和19(1944)年頃に建てられたとある。

    Sohbei
       三田六池創始者 惣兵衛之碑         惣兵衛の功績を偲ぶ碑文

    碑文には、先祖代々の言い伝えや近江人物伝によると、江戸時代、時の惣兵衛氏は貯水量500反分の溜池を計画し、現在の三田六池を築造されたこと、この施設により桐生の農業基盤が確立したこと、その後開拓が進んで700反の耕地が代々子孫に引き継がれ、生活の安定が齎らされたこと、先覚者惣兵衛氏の功徳への感謝が刻んである。

    そこで三田六池という溜池をネットで探してみたところ、キャンプ場から草津川を挟んだ対岸にあることがわかり、早速行ってみた。溜池ということから予想していた規模よりはるかに大きい池で、これが江戸時代に掘られたとは信じ難いことである。ネットで見ても三田六池築造の歴史が記載されているものはなかったので、詮索は後日の宿題とする。

    Mitarokuike(クリックで拡大)
            惣兵衛が創設した大津市桐生の三田六池

    釣りをしていた小学4年生の僕に何が釣れるのと聞いたら、ブラックバスとか鮒が釣れるとのこと。こんな溜池にもブラックバスがいるらしい。この池を作った人の話を知ってるかと聞いたが知らないとの返事。他所から引っ越してきたと言ってたので知らないのかもしれない。桐生の偉人のことを学校で教えて欲しいと願う。

    <紙漉きの里>
    ここ桐生の地は古来、紙漉きの里でもあった。18年前の平成元年に現在の我家に引っ越してきた頃、この界隈はどんな処だったのだろうと滋賀県立図書館で調べていたところ、高橋正隆著「近江鳥の子」という昭和46(1961)年に文華堂から出版された本をみつけた。

    この本で、近隣の桐生が雁皮(がんぴ)を原料とした手漉き和紙の産地であり、雁皮紙は滋賀県無形文化財になっていることを知った。桐生にお住まいの成子佐一郎氏とその奥様が、この滋賀県無形文化財の雁皮紙抄造秘術の伝承者であることが、桐生の風土と歴史とともに詳細に述べてあり、桐生の近くを通るたびに思い出すのであったが、そのまま18年過ぎてしまった。

    今回、この地でまだ雁皮紙製造が続いているのか確かめたいと思いネットで検索したところ、成子紙工房のホームページが見つかった。今は成子哲郎さんという4代目が滋賀県無形文化財の雁皮紙製造技術を立派に伝承されていることが分かって、何やら嬉しかった。そこで桐生の集落を歩いてみたところ、naruko和紙という看板が掛かったお家が見つかった。

    ちょうどお家の方が戻ってこられたので、今もここで紙漉きをされているのか伺ったところ、今ちょうどやっていますよ、と戸を開けて中へ入れて下さり、見学させて頂いた。男性が一人、つまり4代目の成子さん、が、上述の「近江鳥の子」本の写真に出ているそのままの手漉き作業をされていた。素人目に見ても流れるような見事な漉き技であった。

    Torinoko_1
    滋賀県無形文化財 雁皮紙 近江鳥の子     有限会社 成子紙工房

    20年位前に北陸へ旅行したときに、友人が和紙の工房に連れて行ってくれ、紙漉き作業を実習したことがあるが、パルプ繊維を均一に分散させ同じ厚みに漉きあげ、むらのない仕上がりにするのがいかに難しい作業であるかを実感した。それを何枚漉きあげても同じ品質にする技術はただ事ではないと、その時思ったものである。

    成子紙工房のホームページによると、創業が文政12(1829)年とのこと。シーボルト事件が起きてシーボルトが帰国した年である。近江雁皮紙は文政年間に越前から製紙法が伝わったとされ、大正年間には桐生の紙漉きは最盛期を迎えて、金銀張りの地紙が京都の西陣織に使われたり、宣命紙という名で宮内庁御用達になっていたとのことである。

    近江国と紙漉きの関係を探ると、天平6(734)年の正倉院文書造物所作物帳に「給近江紙・・」とあって近江で紙抄造があったことが分かるし、平安初期の「延喜式」からも紙業従事者が近江に多かったことが分かるらしい。ただ近江のどこであったかは定かでなく、桐生の紙漉きがその頃からあったのかどうかは分からない。

    桐生が雁皮紙の産地になったのは、禿山の治山治水と無関係ではないらしい。禿山の山肌植樹に湖北の安曇(あど)山系から潅木が運び込まれたといわれ、潅木に混在した良質の雁皮の苗がここの土壌とあって繁茂したということらしい。もちろんもともと雁皮がこの地に自生していたこともあろう。

    4代目成子氏は、和紙技術の伝承のためNPO法人日本手漉き和紙支援協会を立ち上げたり、若手育成や社会貢献を図っておられ、ずっと以前から地元の小学校の卒業式前に、卒業を控えた6年生の子供に自分の卒業証書の用紙を漉いてもらうという協力をされているとのことである。

    <1300年前の人災を克服>
    20年近くも近くに住んでいて殆ど知らなかった桐生の地であったが、1300年前の都造りの影響が現在にまで及んでいる(もちろんこれだけではないが)地であると知って、いささか感動を覚えた。

    京都の小学校か中学校時代に、お隣の滋賀県の草津川が代表的な天井川であると習ったことは記憶にある。湖南アルプスの禿山には度々ハイキングにいったし、上桐生にはキャンプに行ってオランダ堰堤で水遊びもしたことがある。これらは皆1300年前の出来事と関係していたわけである。

    いわば1300年前から続いた森林伐採という人災を、桐生の人々は三田六池やオランダ堰堤などで長い時間をかけて克服し、美田や紙王と称される手漉き雁皮和紙を今に残しているわけである。このような歴史ある地が同じ学区に入っているということを、新興の地区に住んでいる我々は覚えておきたいものである。

    Nanohana_1(クリックで拡大)
                    菜の花の咲く桐生の里


    |

    « 伊能忠敬の墓所-浅草源空寺- | Main | 再び湖南の芦浦観音寺 »

    Comments

    The comments to this entry are closed.