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2005.03.06

紅萌ゆる丘の花-100年前の吉田山-

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          吉田山にある三高寮歌”紅萌ゆる丘の花”歌碑

<100年前の吉田山麓>
このウェブログを遡って貰うと、「100年前の吉田山麓」という記事がある。我が母校の京都一中洛北高校同窓会誌「あかね」に、会長の西島安則先生が寄稿された「”中高一貫の原風景”-100年前の吉田山麓-」を読んで強く印象を受け紹介した記事である。

  • 100年前の吉田山麓

    吉田山には、859年に藤原氏が氏神を祭ったことを起源とする吉田神社と、”琵琶湖周航の歌”と並んで有名な三高寮歌”紅萌ゆる”の歌碑があり訪れる人も多い。東一条(現在は京大正門前)から京大時計台を左に見てまっすぐ進むと、吉田神社の表参道になる。吉田神社を経て少し登っていくと公園広場に出る。奥の林の中に"紅萌ゆる丘の花"の歌碑が立っている。

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         現在の京都大学時計台             吉田神社表参道
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                         吉田神社神殿
     
    西島先生の寄稿の中に、明治末期の吉田山麓には京大、三高、一中、京都高等工芸、京都市立美術工芸、京都市絵画専門の各学校が並び、一大文教クラスターを形成したが、大正時代の愚かな近代化都市計画によって東大路が作られ、せっかく形成された文教クラスターを分断し、各学校が散り散りになったことが記述されている。

    西島先生の寄稿の中の文教クラスターの形成と消滅の部分を、再度追ってみよう。
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    「最高の学問・芸術・文教のクラスター形成」
     こうして1897(明治30)年の秋には、吉田山麓に京大・三高・一中が隣接して並んで開学した。まさに、文教クラスターの創生であった。     

     1902(明治35)年に、京都高等工芸学校が、京都大学の西側に接して、京都市が購入して寄附した土地に設立されて、開校式を挙行した。また、1880(明治13)年に京都府画学校として創立されて以来の伝統ある京都市立美術工芸学校が、高等工芸の西に土地を購入して、創学以来初めて独自の学舎を新築し、1907(明治40)年に移転して来た。そして、1909(明治42)年には、同所に京都市立絵画専門学校も創立した。吉田神社の参道を中軸にして、文化首都・京都の新時代を象徴する最高の学問・芸術・文教の一大クラスターが成熟し、その自由で知的な雰囲気は、やがて、京都学派と呼ばれるような独自の成果を、すべての分野で創成したのである。        
          
    「都市の近代化と文化の伝統と創造」
     それは、発展的解消というには、余りにも呆気ない消滅であった。19世紀から20世紀への時代の転換は吉田山麓を直撃した。大正のはじめ頃の思い出に、”京大と高等工芸の間は狭い道で、その上を樹がうっそうと繁って、昼でも薄暗い所であった”と書かれている。この狭い道が、1921(大正10)年からの都市計画による道路新設拡張事業で、東大路といういわゆる外郭幹線道路になり急激に拡幅されることになった。鴨川の東、洛外の吉田山麓まで、平安京の盆地の底面の洛中の東西南北の碁盤の目の道路配置を無理矢理拡張したのである。

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           現在の東大路通り(近衛付近 都道府県対抗女子駅伝のコース)

     無意味というより愚かなこの計画の推進は、20世紀の近代化という画一化の特長とも言えよう。何れにしても、それは贖うことのできない京都の近代文化ゾーンの形成の端緒を壊滅させることになった。1926(大正15)年に、美術工芸学校と絵画専門学校は今熊野へ、1929(昭和4)年に、京都一中は下鴨へ、そして、同年、京都高等工芸も松ヶ崎へと、それぞれの新天地へ散り散りに別れて行った。
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    私が物心ついて京都に来た1946(昭和21)年には、今の洛北高校前は「一中前」という市電の停留所だったので、一中はここにあったのだとばかり思っていたし、京都の碁盤の目には、もともと東大路も入っているとばかり思っていた。日本女子マラソンのエースを次々と産み出して人気の高い都道府県対抗女子駅伝も、熊野神社と百万遍の間の東大路を走る。

    それが、京都千数百年の歴史のつい最近まで東大路は存在せず、しかも明治から大正にかけての極く短期間にだけそのような文教クラスターが存在したことも知らず、京都育ちとしては甚だしい認識不足であった。そこで100年前の京都がどのような姿だったのかを一度調べたいと思っていた。

    <110年前の京都地図>
    我が家に平安遷都1100年記念祭を祝って、京都市編纂部が発行した「京華要誌」という和綴じの本が残っている。京都の創立沿革、学校、公共施設、交通、協会、名家、著名商店、興行場や京都のあらゆる名所旧跡の説明が網羅されたいわば京都風土記である。付録には近隣の奈良、大阪、兵庫、岡山、廣島、香川、滋賀、三重、岐阜、愛知の主要名所の説明もある。

    発刊は1895(明治28)年である。第4回内国勧業博覧会もこの年に京都の岡崎で開催された。薩長の藩閥政府が強引に都を東京に遷して、まだ京都には混乱や失望が残っていたと思われるこの時期に、平安遷都1100年記念祭や内国勧業博覧会を開催して、京都の士気を高めたと思われる。記念祭協賛会長として、公爵近衛篤麿の署名が入っている。

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               京華要誌                 記念祭協賛会長近衛篤麿         

    1985年(明治28年)は今からちょうど110年前である。その年に発刊されたこの本には、当時の京都の様子が出ているかも知れないと期待して、少し虫食いのある和綴じの頁をパラパラめくっていくと、案の定、この当時の手書きの地図が挟み込んであった。まさに110年前の京都地図である。吉田山近辺は下の写真のようになっている。

    京都の住人や、京都に詳しい人はこの地図を見て直ぐにお気づきと思うが、鴨川より東、岡崎より北の京都東北部は、今の京都とは全く違っている。西島先生の寄稿にあるとおり、人家は殆どなく第三高等学校が吉田神社の傍に位置しているのみである。この地図の書かれた2年後には、この一帯に京大、一中が、さらに12、3年後には京都高等工芸、京都美術工芸、京都絵画専門学校等が立ち並び、京都東北部の一大文教クラスターが出来た。

     kyoto4(クリックで拡大)
                    110年前の吉田山麓近辺

    このような広大な文教クラスターが出来たことは、当時の京都市民を大いに力づけたであろうし、京都は学生を大事にする街ということで知られてきたが、その礎はこの時代に築かれたのであろう。この文教クラスターがこのまま現在の京都に引き継がれていたら、ということは考えても仕方がないが、御所の北には新島襄が設立した同志社もあり、まさに世界のどこにもない文教ゾーンになっていたに違いない。

    西島先生の寄稿には、1907(明治40)年頃に完成されたこの文教クラスターが、1921(大正10)年からの都市計画で分断され消滅したとある。ということは、この一大文教クラスターの全盛期は高々15年くらいの寿命であった。その数年後からそれぞれの学校の移動が始まり、1929(昭和4)年に、京都一中は下鴨へ、そして、同年、京都高等工芸も松ヶ崎へ散り散りに別れて行った。今から76年前の出来事である。

    <75年前の京都地図>
    京一中洛北高校同窓会は、2003年(平成15年)に「下鴨校舎の70年の軌跡」という記念誌を発行した。1冊買い求めていたので再度良く見てみると、京一中が下鴨へ移転した直後の1930年(昭和5年)の地図が載っていた。松ヶ崎へ移転した京都高等工芸(現在の京都工芸繊維大学)も直ぐ近くに見える。

    showa5(クリックで拡大)
    75年前の下鴨、松ヶ崎界隈(京一中洛北高校同窓会発行下鴨校舎70年の軌跡より)

    この下鴨の京一中は、新制の洛北高校に引き継がれ、私が通うことになったのは27年後(48年前)であった。

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