カイコ蛾の性フェロモン
<性フェロモン>
人間の男性には、女性の発する脂粉の香りや香水の香りに魅かれて女性を感じたり、夜の巷へ繰り出す習性がある。これは人間に与えられた嗅覚のお陰である。しかし男性が感じているのは、脂粉や香水の匂いであって、女性そのものの匂いではない。もし女性が脂粉や香水をつけていなければ、人間は目で見て女性と判断するしかない(従って騙される男もいる)。
ところが、犬の場合は女性すなわちメスの匂いを鋭敏に嗅ぎ分けて、愛をささやく。つまり嗅覚が女性認識の道具である。このような嗅覚世界の代表は昆虫であると昔習った。今でも記憶しているが、カイコ蛾のメスが発する物質は、10のマイナス12乗ガンマあれば、2km離れたオスのカイコ蛾を誘い寄せると聞いて、ヘーと思ったものである。40年前の記憶なので数字が正確かどうかは自信がない。このようなメスがオスを誘引する物質を性フェロモンという。
<性フェロモンの正体>
カイコ蛾のメスが持つ性フェロモンの正体はとっくの昔(1959年)に解明され、「ボンビコール」と名付けられたアルコールであることが分かっている。解明したドイツの化学者は、当時はまだ絹の国であった日本からカイコの蛹を輸入してメス蛾を羽化させ、そのお腹から性フェロモンを抽出して正体をつきとめた。抽出に使ったメス蛾の数は50万頭と、途方もない数だったらしい。
絹の国日本の当時の科学者達は、同じ敗戦国であるドイツの化学者のカイコを材料としたこのような大発見に、賞賛とともに残念な気持も持ったということである。
それはさておき、カイコ蛾のオスはそのような性フェロモンを感じる超鋭敏なセンサーを持っている。ところがこのセンサーがどういうものかは、分かっていなかったのである。そのセンサーをずっと追求していた研究者が日本にいた。
<センサーの正体の発見>
2004年11月16日の朝のNHKテレビや新聞は、性フェロモンを感じるオス蛾のセンサー遺伝子が見つかったと報道した。発見者は今度は日本の化学者で、京都大学農学研究科の西岡孝明教授のグループである。ボンビコールの発見から45年間経って、やっとセンサーの正体が解明されたわけである。
<化学生態学>
この研究分野はケミカルエコロジー(化学生態学)といい、生物の行動を化学の目で理解しようとする学問である。不祥事件で評判の悪いNHKが、地球上の生物の不思議な行動を取り扱った素晴らしい番組を毎週放映しているので、受信料支払いはやめずに見ているが、そのバックグランドとなる学問である。
エコロジーという言葉は、最近は環境を表すキーワードになっているが、もともとは生態という意味である。環境汚染物質が生態系を乱すということから、環境保全や維持のこともエコロジーと表現することになったのであろう。
発見者の西岡孝明教授はこの分野に新しい手法を取り入れて、遺伝子レベルでその正体を解明された。弊方と同じ研究室のご出身でよく存じており、今回のプレス発表の原稿も見せていただいた。冒頭の写真はその資料から拝借したものである。
<カイコ蛾が超鋭敏なセンサーをもつ理由>
ここで一つの疑問があった。超微量の性フェロモンと超鋭敏なセンサーの関係が解明されたことは分かったが、カイコ蛾はなぜこんな超鋭敏なセンサーを持つのかという疑問である。何もそこまで鋭敏でなくても種の保存は可能なのではないか。しかしそこには超鋭敏でなければならないちゃんとした理由があった。
西岡教授から頂いた資料には、カイコのメスは蛹から羽化して蛾になった後、約1週間でその一生を終えるとある。その短い期間にオスと出会って交尾をし産卵しなければならない。しかし野生の蛾の存在密度は極めて低い。蛾にとっては世間は広く、同じ種類のオスとメスが出会うことは奇跡に近い。
そこで神様が、メスに性フェロモンという武器を与え、オスに超鋭敏なセンサーを与えて、1週間の生存期間の間にオスとメスの出会いを実現させる仕組みを作ったというわけである。つまりカイコ蛾オスのセンサーは極めて鋭敏でないと種の絶滅につながるので、鋭敏でなくてはいけない理由が立派に存在するのである。
<生物多様性>
このような自然界の巧妙な仕組みにはただただ驚くことが多い。多くの生物が共存するための知恵が何億年にもわたって積み重ねられてきた結果である。人間の都合でこのような仕組みを壊すことはやめたいものである。そういう考え方は世界にも広まっている。
国際的には1992年に生物多様性条約が作成され、地球サミット期間中に日本を含む157カ国が署名したとのことである。日本の環境省においても、1995年10月に生物多様性国家戦略が策定され、2002年3月には新・生物多様性国家戦略が策定されている。
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