2019.09.18

大文字の送り火は五山より多かった

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<大文字山>

京都育ちなので、8月16日は大文字の送り火と頭に焼き付いている。最近はKBS京都テレビが中継もやってくれるので、大津市に居を構えた今も、毎年テレビで大文字の送り火を見ている。有難いことに、京都在住の高校時代の友人のM君が、自分が住んでいる鷹峯付近からの大文字の写真を、毎年欠かさず送ってくれるので、貴重な現場写真も毎年見ることができる。彼が送ってくれたここ5,6年の大文字の現場写真を冒頭写真に掲げた。2016年は点火はされたのだが、大雨で見えなかったので、この年の写真はない。

この「大」の字のある大文字山は、京都の東山の一角をなし、正式には如意ヶ嶽(にょいがたけ)であると小さい時から思い込んでいた。しかし今回、ウィキペデイアの「如意ヶ嶽」を参照してみたら、現在では、如意ヶ嶽と大文字山は別の山であることを教えられた。如意ヶ嶽は標高472mの京都東山の主峰であるが、支峰(西峰)として大文字山の山頂が如意ヶ嶽山頂の西方1.3km強の位置にあり、標高465.4mで三等三角点も設けられている、とある。つまり如意ヶ嶽も大文字山も京都東山を形成しているが、如意ヶ嶽は京都市内からは全く見えず、8月16日に大の字が点火される西側の大文字山が見えているということらしい。

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           京都市内から見る大文字山              「大」の火床がある山肌   

如意ヶ嶽と大文字山の混同は昔からあったらしく、ウィキペディアにその歴史が載っている。引用すると、「古くは両山を同一視する向きが多く、この周囲の山塊を如意ヶ嶽と呼んでおり、江戸時代の書物では、如意ヶ嶽で送り火が行われる、とか、如意ヶ嶽を俗に大文字山という、などどといった例が見られた。1791(寛政3)年、神沢貞幹の『翁草』では、如意峰と、大の字をもった浄土寺山の二山が並立している図版が掲載されている。その後、大文字の送り火が定着するにつれ、それが行われる支峰が独立し大文字山と呼称されるようになったという」

「近年も混同は続いており、両山は同じものであるとも、元々は如意ヶ嶽であったが、大文字の送り火が有名になり、大文字山と呼ばれるようになったとも、如意ヶ嶽の西側または中腹の通称が大文字山であるともいう。大文字保存会でも同一視する者がいるなどするという。なお2003年の資料によれば、大文字保存会は公式には、送り火を行う山を大文字山としている」と述べてある。私が育った京都の家は叡山電車の沿線にあり、比叡山や大文字山は近かったのだが、比叡山には何度も登ったのに、それより低い大文字山にはなぜか登る機会がなかったので、正確なことを知らずに今に至ってしまった。

<送り火の意味>

ところで、なぜ大文字のような送り火の行事があるのかについては、8月13日~15日のお盆の間、先祖の霊が現世に帰ってきて、お盆が終わるとまた浄土に戻っていくので、その霊を送るかがり火であると教えられ、そういう宗教行事なのだと理解していた。五山の送り火に関するウィキペディアの記載には、「『雍州府誌』(注:1682~1685に黒川道祐が書いた山城国の地誌)によると、盂蘭盆会や施餓鬼の行事として行われていたとあり、『花洛細見図』(注:1704年に刊行された京都の地誌)にも盂蘭盆会の魂祭として紹介されていることから、江戸時代前期から中期までにはそれに類する性格を持っている」とあるので、この理解で良さそうである。

また、送り火の起源や由来に関するウィキペディアの記載を参照すると、「山に画かれた字跡に点火する行為の起源については、平安時代とも江戸時代とも言われているが、公式な記録が存在するわけではない」とか、「送り火という性質上、仏教が伝来し民衆に深く根付いた時代より後のことと考えられる。また公式な記録が見られないことから、為政者・権力者の側ではなく、民衆の側より発生したのではないかと見る向きもある」などの記載があるので、仏教の法典にもとづいたこれという起源や由来はなく、仏教を背景にした民衆の先祖を敬う心から自然に発生した行事なのかもしれない。

さらに、「場所と行為を具体的に特定した史料が登場するのは近世に入ってからである」とあり、「送り火について言及している最も古い文献は1603(慶長8)年の『慶長日件録』7月16日に、山々灯を焼く、と記されているものである。その後、江戸時代に発刊された各種の都案内本の類ではほとんどで送り火への言及がみられたが、なぜか地図への反映は遅れ、駒敏郎によれば1709(宝永6)年の『京絵図』が最も古い」ともある。1603年は江戸幕府が開始された年であり、「慶長日件録」とは江戸時代初期の公家である船橋秀賢の日記で、江戸幕府成立期の朝幕関係や、京都市中の様子など、当時の状況を知るうえで貴重な内容が記されているらしい。

<五山の送り火>

現在の京都ではよく知られているように、8月16日には大文字山の「大」の他、松ヶ崎の「妙」と「法」、船山の「舟」、大北山の「左大文字」および嵯峨の「鳥居」が点火され、五山の送り火と称されている。京都五山というと、室町時代に足利義満が定めた臨済宗の禅宗の寺格のことを思い出すが、送り火の五山はこれとは無関係である。五山の送り火は、正式には「大文字」、「松ヶ崎妙法」、「舟形万灯籠」、「左大文字」、「鳥居形松明」と呼ぶらしい。

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              五山の送り火(毎年8月16日20時~)

これらの五山の送り火については、江戸時代以降の史料に出てくる送り火の記載から、その様子がある程度わかる。

・旧暦の7月16日の夕刻あるいは晩に点火される。

・その性質から、聖霊(精霊)の送り火、亡魂の送り火などと呼んでいた。

・大文字については、大文字山の西北の面に大の字の跡があり、それに点火する。多くの史料がこの山について取り上げているが、当時は大文字山という呼称はなく、史料によって、如意ヶ嶽、如意宝山、慈照寺山、浄土寺山などの呼称が見受けられる。これらは同一の山を指していると考えられる。大の字の筆者については、青蓮院門主、三貘院(さんみゃくいん:近衛信尹)、弘法大師、横川景三(相国寺の僧)の諸説があるらしい。現在では大文字山は、左京区浄土寺七廻り町に位置している。浄土院の(元)檀家が世襲で保存会を組織して、管理・運営にあたっている。

・妙法については、「日次記事」(ひなみきじ:黒川道祐編の江戸前期の京都を中心とする年中行事の解説書)などで松ヶ崎の山としているほか、「花洛細見図」では大文字山と対になる形で松ヶ崎のあたりに「法」の字が書かれている。現在では左京区松ヶ崎西山(妙)と東山(法)に位置している。実際は二山二字であるが、送り火としては一山一字として扱われる。涌泉寺の(元)檀家が世襲で保存会を組織して、管理・運営にあたっている。涌泉寺の寺伝によると、1307(徳治2)年、松ヶ崎の村民が日蓮宗に改宗した時、日像が西山に「妙」の字を書き、江戸時代、下鴨大明寺(現在は廃寺)の日良が東山に「法」の字を書いたという。

・舟形については、多くの史料が北山の所在としているが、明確な所在地は記されていない。現在では北区西賀茂の船山に位置している。西方寺の(元)檀家が世襲で保存会を組織して、管理・運営にあたっている。船の形は847(承和14)年、唐からの帰路に暴風雨にあった、西方寺の開祖・慈覚大師円仁が「南無阿弥陀仏」と名号を唱えたところ無事到着できたという故事に因むという。

・左大文字については、史料上の初出は「扶桑京華志」(1665年に松野元敬が記した山城国の寺社と森羅万象を取り上げた名所案内)であるが、他山と比較して取り上げている史料の数が乏しいらしい。1658年の「洛陽名所集」(山本泰順の山城名所記)には記載がないので、1660年くらいの時期に始まったのではないかと見られている。現在では北区大北山鏡石町の大北山(左大文字山)に位置している。成立についての伝承や記録などは残っていないという。法音寺の(元)檀家が世襲で保存会を組織して、管理・運営にあたっている。

・鳥居形については、史料上の初出は他の四山より大きく遅れており、江戸時代中期も終わるころに発刊された「翁草」(江戸時代後期に神沢貞幹が書いた随筆)とされるが、それ以前の絵図にも鳥居形と察せられる送り火の様子が掲載されているという。現在では右京区嵯峨鳥居本一華表町の曼陀羅山に位置している。他の山と違い唯一、寺の檀家による世襲ではなく、有志による保存会が管理・運営にあたっている。

<十山あった京都の送り火>

今年(2019年)の8月16日も、KBS京都テレビで大文字送り火中継を見ていたら、番組の最後の方で「蘇る十山送り火」という画面が流れた。「なに? 送り火は五山ではなかったの?」と不審に思って説明を聴いていたところ、現在、五山六文字で実施されている京都五山送り火は、一説には、明治初期までは十山で点火がされていた、との話があるとのことであった。しかも左京区の市原野に点火されていたという「い」文字については、かなり取材も進んでいて、ほぼ確実視されているらしかった。

番組では、さらに「一」、「竹の先に鈴」、「蛇」、「長刀」の残り四つの情報を収集していているので、現在70歳代後半の方の子供時代の記憶や家に代々伝わる言い伝えなど、「消えた送り火」に関する情報提供を依頼していた。残り四つも含めたおよその概念図が画面でも紹介されていた。70歳代後半ならまさに我々世代になるのであるが、我家は戦後京都に引っ越してきたので、そのような情報は全く聞いたことがなかったし、代々京都で生まれ育った友人もいるが、そのような話題が出た記憶がない。

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             KBS京都テレビ(2019年8月16日放映画面)

ウィキペディアには、「現代では五山で行われているが、近代には他山でも行われていたとされる。下記の五山が有名であるが、さらにほかの山でも行われていたとする伝承もある」とあり、以前は点火していたとされる送り火について記載している。

・「い(かながしら・いちはら)」については、左京区静市市原町、もしくは左京区鞍馬二ノ瀬町の両説があるとしている。市原説の方は、市原野小学校百周年事業委員会による「いちはらの」(1976)の中で、担当する家に死者が多かったことや経費上の問題から、明治初年に廃止されたとしていることが根拠になっている。しかし京都新聞の前身である日出新聞には、明治30年代初め頃まで点火されていたことが確認されるとも出ている。二ノ瀬説は、京都大学霊長類研究所の正高信男教授が、江戸時代の文献を手がかりに実地調査を行い、二ノ瀬の安養寺山に火床と見られる跡が見つかったと2018(平成30)年に発表されたことによる。まだ確定的ではなく、さらなる研究が必要という段階らしい。

・「一」については、右京区鳴滝が候補にあがっている。

・「竹の先に鈴」については、田中緑紅(京都の郷土史家)の「京都」では西京区松尾山とされているものの、明治20年代の日出新聞の記事では、左京区静原、あるいは左京区一乗寺とされている。

・「蛇」については、右京区北嵯峨が候補にあがっている。

・「長刀」についても、右京区嵯峨観空寺が候補にあがっている。「蛇」と「長刀」の寸法などが書かれた古文書が発見されたが、年号がないため書かれた時期は不明だが、日付が旧暦であるため、明治5年以前であることは間違いないであろうと思われる。

ウィキペディアでは、これらの送り火がいつ頃消滅したのかはっきりとしていないが、明治時代から昭和初期頃にかけて徐々に数を減らし、現在の五山に減少した後に、五山送り火という呼称が定着したのだろうと推測している。

<所感>

毎年8月16日になると漫然と見ている大文字の送り火であるが、今年のテレビ解説で、昔は十山に送り火があったという話を聞き、京都育ちでありながら知らなかったと反省して、消えた送り火のことを調べる羽目になってしまった。2014年にも、「今はなき消えた送り火を探して」と題してKBSでテレビ放映されたらしいが、その部分は見てなかったようである。上記のように、消えた送り火の研究は現在も続いているようなので、また来年の大文字中継での成果紹介が楽しみである。

しかし、山肌に字を書いて点火して先祖の霊の送り火とし、多くの人が見ることができるイベントにするという雄大な発想や構想は、だれが、どういうきっかけで、いつ頃発想し実行したのだろうか。その起源については大変関心があるが、詳細な起源や由来は不明なようで、まだまだ謎の部分が多いようである。ペルーのナスカの地上絵も同じであろうが、夜空に浮かび上がる送り火を見ていると、昔の人間の発想力や、構想力は実に雄大であったのだなあ、と感心する以外ない。現在の管理された社会環境からは、とてもこのような夢のある発想は出来ないのではないかとも思う。

高校時代のことであるが、山岳部に属していた友人が大文字が点火される日に、今夜の大文字を「犬」にしてくるからな、といって登って行ったことを覚えている。今は点火の日は入山規制されていて関係者以外の登山は出来ないが、昭和30年代の当時は点火の日でも入山できたのである。懐中電灯かランタンの類を持って行ったのだろうが、決行の時間になっても「犬」になったようには見えなかった。一瞬「犬」になったのを見た、という友人もいたが、本当かどうかは未だに良くわからない。

当時はまだ大らかな時代であったから、こういういたずらも笑い話で終わったが、管理社会になった今ならひんしゅく(顰蹙)を買うかも知れない。事実、大文字点火の日ではないが、2003年9月13日の夜に、当時18年ぶりのリーグ優勝目前の阪神タイガースファンの25人が大文字山に登り、各々の懐中電灯で阪神のHTマークを照らし出し、騒ぎになった、とウィキペディアに出ている。

 

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