2018.04.16

京都醍醐寺の豊太閤花見行列

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   葉桜の下の豊太閤花見行列(京都醍醐寺境内)

<13年前の醍醐寺>
広辞苑によると、「醍醐」とは「五味の一」とある。つまり味の一つであり、牛または羊の乳からつくられた漿を精製した濃厚甘味の液体の味(醍醐味)のことをいうらしい。そして仏の教えのすぐれて尊い味わいを醍醐にたとえて醍醐の法味といい、仏典にも登場しているそうである。京都の醍醐寺は、874(貞観16)年に空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が笠取山の頂上付近を醍醐山と名付け、ここに草庵を結んで如意輪観音像などを刻んで祀ったのが始まりとされる。

醍醐寺には2005年4月2日に一度訪れた。この時は、高校時代の友人のN君が京都のボランティア人権ガイドの資格試験に合格して人権ガイドの資格を取得したので、そのお祝いに我々高校の同級生仲間がお客となって、彼のガイドぶりを拝見しようと醍醐寺を訪れたことがきっかけであった。地元の京都や滋賀の在住者に加え、長野と千葉に嫁いだ女性も駆けつけて総勢10名くらいが集まり、夜はさらに地元在住の同級生が加わって京都市内の料亭でミニ同窓会となった。

このボランティア人権ガイドは、京都府、京都市、京都商工会議所の支援で、平安遷都1200年を記念し、1994(平成6)年に文部省の認可を受けて設立された公益財団法人世界人権問題研究センターに所属している。京都のまちには数多くの名勝、史跡があるが、そこには京都の歴史や文化に寄与した被差別民衆の生活史も刻まれている。さらに朝鮮半島や中国からの渡来人が京都文化の構築に大きな役割を果たしている。世界人権問題研究センターはこのような名勝地を人権という視点でとらえることが出来るようボランティア人権ガイドを派遣しているという。

そのような立派な資格を取ったN君の案内で、この日は下醍醐とよばれる地域を見て回った。醍醐寺は聖宝による創建後、上醍醐とよばれる山深い醍醐山頂上一帯は多くの修験者の霊場として発展した。907(延喜7)年には醍醐寺を自らの祈願寺とした醍醐天皇が薬師堂を建立した。926(延長4)年には山麓に釈迦堂(金堂)が建立され、952(天暦6)年には五重塔が完成した。1115(永久3)年には14代座主勝覚により、三宝院が建立された。この山麓一帯が下醍醐とよばれ、下醍醐から上醍醐へは険しい山道で隔てられ徒歩で1時間はかかる。

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      醍醐寺入口の総門                 三宝院の境内
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     三宝院の唐門(勅使門)                 仁王門
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           金堂                       五重塔

下醍醐は、室町時代の応仁の乱などの戦乱で荒廃し、五重塔のみが残された。ウィキペディアによれば、三宝院も応仁の乱で焼失し廃寺同然となったが、安土桃山時代、醍醐寺金剛輪院の院主であった義演は豊臣秀吉の信頼が厚かったため、1598(慶長3)年に同院を中心に有名な「醍醐の花見」が開かれた。義演は秀吉の許可を得て三宝院32世を名乗り、金剛輪院を三宝院と改称した。桜で有名な三宝院庭園はその時期に整備されたという。太閤秀吉が愛でたという桜のクローン樹が現在の三宝院境内に植樹されている。

金堂は、豊臣秀吉の発願により、紀州の満願寺本堂を移築したもので、「醍醐の花見」が行われた1598(慶長3)年から移築を開始し、秀吉没後の1600(慶長5)年に落慶している。内部には本尊である薬師三尊像が安置されている。五重塔は応仁の乱による焼失を免れたので、京都に残る数少ない平安時代の建築として貴重であるらしい。内部の曼陀羅や壁画も平安絵画の遺品として貴重であるので、五重塔本体とは別に、絵画として国宝になっているという。

下醍醐から上醍醐への登り口には、かつて上醍醐が女人結界(女人禁制)であったことから女人堂がある。信仰心の篤い当時の女性たちはここから山上の諸仏を拝んだという。ということはボランティア人権ガイドのN君のまさに得意とする分野であり、出番である。この日参加した同級生の女性陣を相手に、女人堂の前での女性差別の歴史に関するN君の説明には熱が入ったことであった。

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           女人堂               N君の女性陣への熱い説明

<醍醐の花見>
この時から13年経った2018年4月8日に、再び醍醐寺を訪れることになった。今回は大学時代に属していたテニス部の先輩で、繊維関連ライバル会社のK社出身のN氏からのお誘いであった。N氏はK社リタイヤ後も仲間の方と勉強会をされており、今年は醍醐の豊太閤花見行列を見に行き、その後会食をするということであった。その席で、私が昨年受けた日本技術士会会長表彰のお祝いを割り勘でやりたいのでぜひ、というお誘いであったので、割り勘ならということで参加させてもらった。

豊太閤花見行列は上記の豊臣秀吉の「醍醐の花見」を模したもので、毎年4月の第2日曜日に開催される。1598(慶長3)年、豊臣秀吉が畿内から700本の桜の木を集め、醍醐寺三宝院の建物と庭を造営し、3月15日(新暦の4月20日)に豊臣秀頼、北政所、淀殿、松の丸殿、諸大名やその配下の女房、女中衆など約1300人による一日だけの「醍醐の花見」を行ったとされる故事に因んだものである。

ウィキペディアによると、記録に残るその日の輿の順は、一番目に北政所、二番目に西の丸殿(淀殿)、三番目に松の丸殿、四番目に三の丸殿、五番目に加賀殿、その後に側室ではない前田利家正室のまつが続いたという。花見の責任者には奉行の前田玄以を任命し、諸大名は伏見城から醍醐寺までの沿道の警備や、会場に設営された八番の茶屋の運営などにあたった。花見に招かれたのはほとんどが女性ばかりで、秀吉、秀頼の他には唯一前田利家の名が見えるのみらしい。

参加した女性たちには2回の衣装替えが命じられ、一人3着づつ着物が与えられたという。衣装代だけで今の価値で39億円に相当する金額がかかったとNHKの歴史ヒストリアに出たらしいが、見ていないので真偽のほどは不明である。三宝院の中興の祖、義演は秀吉の帰依を得て良好な関係を築いていたが、秀吉の最期が近いことを感じ取り、英雄の最後にふさわしい大舞台をしつらえるために、あちこちにそれとなく手配をして、この「醍醐の花見」を実現させたともいう。秀吉はこの約5か月後に没している。

<豊太閤花見行列>
今年2018年は全国的に桜の開花が早く、ソメイヨシノなどは3月中に満開になってしまったので、訪れた4月8日は冒頭写真のように葉桜の下での花見行列となった。行列は三宝院の唐門(勅使門)から出発し、参道を進んで仁王門に至る。この間は無料の観覧地域なので、参道の両側に多数の観客が並んで行列を見守る。仁王門からは有料の観覧地域となり、行列が中に入ってしまうと、金堂前での奉納行事が終わるまで出入り禁止になる。奉納行事が終わると再び行列は仁王門を経て、出発地の三宝院に戻る、というコースである。

豊太閤花見行列を見るのは始めてだったので、出発する唐門(勅使門)の傍に陣取って、門から出てくる行列を見守ることとした。13年前に訪れた時の唐門はかなり古びていたが、今回見る唐門は見違えるようにきれいになっており、門扉の金色の紋が鮮やかに浮かび上がっていた。午後1時に唐門が開き、次々に行列が出てきたので、その模様を撮った写真の一部を以下に掲げる。アナウンスを聞いていると、東映太秦の俳優や京都伏見の酒造会社「月桂冠」の社長や社員が扮していることがわかった。

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   三宝院唐門で行列を待つ観客         唐門が開き行列開始
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       豊太閤のお出まし            三宝院中興の祖 義演僧正
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           北政所                      淀殿

行列の主役である豊臣秀吉には、清酒「月桂冠」を製造している伏見の酒造会社、月桂冠株式会社の社長が扮しているというアナウンスがあった。また北政所、淀殿、三の丸殿、松の丸殿、加賀局、右京太夫、有楽つる、小野のお通、孝蔵主、大蔵卿局といった秀吉を取り巻く女性陣には、月桂冠株式会社の女性たちが扮していることもアナウンスされた。事情通によれば、社内の抽選で役が決まったそうである。一昨年は京都の老舗漬物屋の西利の社長が秀吉役だったそうなので、京都の企業が毎年支援しているのであろう。

行列が仁王門をくぐって金堂へ向かった後、醍醐寺の宝物を展示してある霊宝館や、ちょうど開催されていた仏像展を訪れ、その後、13年ぶりに三宝院の建物や庭を拝観した。見覚えのある庭園を拝観していた時、ちょうどタイミングよく行列が帰還してきたのはラッキーであった。唐門から帰還してきた豊臣秀吉を始めとする行列の皆さんが、我々の目の前で解散をし、豊臣一族に扮した皆さんがまだ咲いている桜の下で記念撮影されていた。

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      お務めご苦労様でした。        記念撮影する豊臣一族の皆さん

<所感>
ともあれ大学先輩のN氏からお誘いを受け、初対面の方も含む皆さんと一緒に、いにしえの太閤秀吉の絢爛豪華といってもよい安土桃山時代の遺産を楽しく観覧することが出来た。神社仏閣の年中行事と言えば、例大祭など宗教上の意味をもつものが多く、その故事来歴を知ることが、お祭りを楽しむために必要ともいえるが、醍醐寺の豊太閤花見行列は、昔、豊臣秀吉が醍醐寺で花見の宴を催したという、至極単純な故事に因むものなので大変わかりやすい。

豊太閤花見行列は混雑を避けるため、あえて桜の満開時を過ぎる4月第2日曜日に設定してあるらしいが、色とりどりの女性の衣装が目立つ華やかな花見行列を見ていると、満開の桜の下で行ったであろう本物の醍醐の花見は、桜と女性たちの衣装をテーマにして、豊臣秀吉が自分を取り巻く女性たちへのサービスとして企画したのではないかと思えるし、天下統一を目前に控えた時期の新たな文化創造であったのだろうと思える。

安土桃山時代は別名織豊時代であり、織田信長と豊臣秀吉という2人の派手好き(文化好き)な英雄が現れたため、文化が人間に結びついた時代であった。桃山文化とよばれるこの時代の文化は、新興の武士勢力や豪商の気風、商人の経済力などを反映して、仏教色の少ない現世的な文化が花開いた時代といえる。つまり古代や中世の文化が神仏中心であったのに対し、寺院勢力を弱めていった信長や秀吉の政策により、現実的で人間中心主義的な文化が興隆してきたということかも知れない。

そんなことを感じながら、次の会食会場へ向かった。


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