2018.01.12

湖南の良弁ゆかりの石山寺と金勝寺

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良弁僧正(ウィキペディアから)

<湖南地域>
我家は滋賀県の湖南と呼ばれる地域に位置する。湖南は読んで字のごとくびわ湖の南という意味であり、次図に示した滋賀県のエリア図では、我家が所在する大津市南部や、草津市、栗東市、守山市、野洲市が所在する湖南エリアと、甲賀市、湖南市が所在する甲賀エリアが湖南地域に入る。東海道新幹線、JRびわ湖線、名神高速、新名神高速、国道1号線などの東西を結ぶ交通の大動脈が通っている地域である。

滋賀県のエリア図(クリックで拡大)
Biwako_map_2湖南エリアに属する草津市、栗東市、守山市、野洲市には、以前のウェブログで縷々述べたように弥生時代の遺跡が数多くあり、邪馬台国がここにあったのではないかという邪馬台国近江説も出ているくらい古くからの歴史がある地域である。

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    さらにこの地域には、白鳳時代に栄華を極めた寺院跡が集中する常盤地区や、聖徳太子の伝説をかかえた寺社が多くあり、以前のウェブログ「湖南の白鳳寺院と聖徳太子伝説」で触れた。

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    また甲賀エリアに属する信楽には、742年に聖武天皇が造営した紫香楽宮の跡がある。現在の奈良の大仏として有名な廬舎那仏大像の創建は、聖武天皇により743年にここで発願された。しかし紫香楽宮での大仏の建立は、山火事などの不穏な出来事が頻発したため行われず、聖武天皇が平城京に帰還した745年から開始され、752年に東大寺大仏として完成した。そして大仏建立の功績により東大寺初代別当となったのが、良弁(ろうべん、りょうべん)という僧であった。

    <湖南に集中する良弁ゆかりの寺院>
    良弁は東大寺別当になった後、大僧都、さらには僧正にまで昇進した奈良時代を代表する華厳宗の高僧であった。「東大寺要録」には良弁僧正は相模国漆部氏の出身とあるが、「元亨釈書」には近江国志賀里の百済氏の出身とある。朴鐘鳴編の「滋賀の中の朝鮮」では、良弁を相模出身とみるより、石山寺との関係や新羅仏教が影響を与えた華厳宗の僧であることから渡来系である可能性が高く、近江の百済氏出身と考えるべきであろうと指摘している。

       湖南の良弁開基寺院(クリックで拡大)
    Photo_3「滋賀の中の朝鮮」には良弁と近江の強い結びつきを示す例として、左図のような良弁が開基とされている寺院の配置図が出ている。一見してこれらの良弁開基寺院は湖南地域に集中していることがわかる。

    大津市:石山寺(747)
    草津市:常善寺(735)
    栗東市:金勝寺(733)、金胎寺、安養寺(740)、観音寺(707-715)
    湖南市:長寿寺(724-749)、常楽寺(708-714)、正福寺、廃少菩提寺跡(731)
    甲賀市:飯道寺、嶺南寺

    ( )内は創建年代であり、これらの良弁開基寺院はいずれも8世紀前半に建立されている。我家は大津市の湖南部に位置しており、赤丸で示した辺りにある。つまり我家は8世紀前半に良弁が創建した寺院群に囲まれているということになる。

    そんなことから良弁僧正には何となく親近感を感じていたので、我家の近くにある良弁ゆかりの石山寺と金勝寺に触れてみることにした。

    <石山寺>
    石山寺には鎌倉時代の作とみられる「石山寺縁起絵巻」がある。石山寺の諸縁起や、寺での出来事、本尊の観世音の霊験の数々を物語る絵巻である。この石山寺縁起絵巻の詞書によれば、聖武天皇の発願により、747(天平19)年に良弁が聖武天皇から預かった聖徳太子の念持仏であった如意輪観音を、以下のような事情でこの地に祀ったのが石山寺の始まりとされている。

    その事情とは、聖武天皇は、東大寺の大仏建立に必要な黄金が不足していたので、良弁に吉野の金峯山で黄金産出の祈願をさせたところ、良弁の夢に蔵王権現が現われ、近江国志賀郡の湖水の南の山で祈れとのお告げがあり、それに従って良弁は石山にたどり着いた。そこにいた比良明神の化身である老人に導かれて巨大な岩の上に如意輪観音を祀って草庵を建てたところ、2年後に陸奥国から黄金が発見された、というものである。

    ただ如意輪観音が岩山から離れなくなったので、これを覆うように堂を建てたのが石山寺の草創という。その後761(天平宝字5)年から堂宇の拡張、伽藍の整備が行われ、正倉院文書からも石山寺の造営は国家的事業として進められたことが分かるそうである。初代の如意輪観音は1078(承暦2)年の雷災で損壊したが、1096(永長1)年に本堂の再建とともに新しく如意輪観音が造立された。秘仏であり33年ごとや天皇即位時に開帳される。

    石山寺にはJR石山駅からだと京阪電車の石坂線に乗り換えて二つ目の京阪石山駅(終点)で降り、瀬田川沿いに歩いて10分程度で東大門の門前に着く。途中の山裾には古くからの料亭や土産物屋、新興の喫茶店などがあってなかなか風情のある遊歩道である。春は桜、初夏は新緑、秋は紅葉、冬は雪景色と季節の美しさを堪能させてくれる。近江八景の一つ「石山秋月」として有名である。

    門をくぐると両側に桜や紅葉が植わったきれいな参道になり、しばらく進むと右手に奇怪な岩山があらわれる。石山寺の名前の由来ともなっている石山寺硅灰石という巨大な岩盤で、国の天然記念物にもなっている。石山寺の本堂や多宝塔はこの石山寺硅灰石の上に建てられている。天智天皇の時代にはこの地は石切り場とされ、奈良の川原寺の基礎石として使われていたことが分かっているらしい。

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         石山寺月見亭から望む瀬田川          東大門(重要文化財)
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          石山寺境内の参道                石山寺硅灰石
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          石山寺本堂(国宝)                多宝塔(国宝)

    平安時代には貴族たちによる石山詣が盛んであった。石山詣は特に女性の間で流行したようで、平安時代の女性による文学作品に石山寺がよく登場している。清少納言の「枕草子」、藤原道綱母の「蜻蛉日記」、菅原孝標女の「更級日記」、和泉式部の「和泉式部日記」などに描写されている。また紫式部が参籠中に「源氏物語」の着想を得たという言い伝えもあることはよく知られている。

    石山寺の本堂には紫式部源氏の間が造られている。源氏の間の解説には、「今を去る約千年の昔、寛弘元年(1004年)八月十五夜、紫式部この部屋に参籠し前方の金勝山(こんぜやま)よりさし昇る中秋の名月が下の湖面に映える美しい景色に打たれ構想の趣くままに筆を採られたのが有名な『源氏物語』であります」とある。また裏山の散策路には紫式部の銅像がある。

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         本堂の紫式部源氏の間            散策路にある紫式部像

    <会社同期物故者の慰霊>
    実は石山寺は、私が定年まで37年間勤めた石山を発祥の地とする会社と縁が深い。4月16日に開催される創立記念日には石山寺から滋賀事業場に座主が来られて物故者慰霊祭を行うのが常であった。私が定年退職して数年後の2009(平成21)年に会社は石山寺に光堂という堂宇を寄進し、物故者慰霊祭もここで行うようになった。鎌倉時代に存在したといわれる光堂を復興したものという。

    2015(平成27)年5月14日に、我々1965(昭和40)年入社の同期生が滋賀の地に集合して、入社50周年記念大会を行った。この時の行事の一つとして、残念ながらすでに鬼籍に入った同期生の慰霊式を石山寺の光堂で行ったのである。石山寺も快く主宰を引き受けてくださり、座主と副座主のお二人に読経していただき、参列した60名あまりの同期存命者で物故者の慰霊を行った。

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         光堂へ向かう同期の仲間          同期生の物故者慰霊式

    <金勝寺>
    石山寺本堂の紫式部源氏の間の解説にあった「金勝山(こんぜやま)」は単独の峰ではなく、大津市と栗東市にまたがる鶏冠山や竜王山などの山系のことで、ハイキングコースが設けられており、金勝アルプスなどと称されている。自然の岩石の表面に仏像を彫刻した狛坂摩崖仏(こまさかまがいぶつ)が有名で、大小合わせて15体の仏像が刻まれているらしい。一度見に行こうと思っているがまだ行けていない。

    金勝寺(こんしょうじ)はこの山系の東側、栗東市に位置しており、道の駅「こんぜの里りっとう」から山道に入って行くが車でも行ける。我家からは車で30分くらいの距離にある。733(天平5)年に良弁が草創した寺院で、後、興福寺の高僧願安が入山して弘仁年間(810-824)に大伽藍を建立し、833(天長10)年には官大寺や国分寺に次ぐ寺格の定額寺(じょうがくじ)に列せられたという。

    最盛期には25の別院を有する大寺院となり、湖南地域の仏教文化の中心として栄えたらしい。金勝寺のパンフレットによれば、1549(天文18)年の大火により諸堂がことごとく焼失した。その後、1599(慶長14)年に住職が徳川家康に再建を請願し、石垣は修復されたものの往時の規模を取り戻す再建には至らず、現在の本堂は約400年前の仮堂のままであると記載されている。

    金勝寺には2015年6月に初めて訪れ、翌2016年6月にも再度訪れた。栗東から信楽へ抜ける県道12号線の途中にある道の駅「こんぜの里りっとう」から脇道に入り、くねくねとした山道を上って行くと金勝寺の駐車場に至る。山中でもあり訪れる人も少ないようで、林間に仁王門、本堂、二月堂、虚空蔵堂など、いくつかの建造物が建っているのみで、往時の大寺院を偲ばすような雰囲気はなく、静寂そのものの環境である。

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             参道と仁王門                 金勝寺本堂
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          仁王門の左右に立つ仁王像         良弁僧正と願安法師の座像

    仁王門には、いつの時代に作られたものか分からないが、かなり色褪せているものの立派な仁王さんが左右に立っている。体に書かれている絵はおそらく仏教の教えに関するものであろう。金勝寺の本堂は400年前の仮堂ということで、たしかにささやかな本堂であるが、中には本尊の釈迦如来像とともに、創建者の良弁僧正と大伽藍を建てた願安法師の座像が安置されている。

    良弁僧正と願安法師の座像の手前に馬頭観音菩薩の立像が祀られているが、この金勝寺を通り過ぎてさらに山を上ったところに馬頭観音堂がある。そこの広場からの景色がすごく良いということを、麓の道の駅で聞いたので、ここにも行ってみた。広場までは車で行けるとのことだったので、金勝寺から10分ほど山道を上って行くと急に視界が開け、馬頭観音堂前の広場に達した。

    S
              馬頭観音堂

    ここから先は金勝山を巡る徒歩でのハイキングコ-スになり、車は入れない登山路になる。この広場に車を置いて、馬頭観音堂の傍を通ってハイキングコースに入る人もいるようである。来る人がそれほど多くなさそうなのでトラブルもないのだろう。振り返ると道の駅で教えてもらった通り、眼下に栗東、守山、野洲などの湖南の町が所在する近江平野が望め、近江のシンボル、近江富士(三上山)がよく見える。

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                馬頭観音堂前広場から望む近江平野

    眼下に広がるこの湖南の近江平野には、前述したように良弁が開基した寺院群が多く所在しているので、いにしえの良弁を偲ぶには良い場所である。良弁はこの見晴らしの良い場所に来たことがあるのだろうか、という疑問がふと頭をかすめた。ここから自分が創建した寺院群を眺めたらさぞかし気持の良いことであろう、などとくだらない詮索をしながら帰途についた。


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