2018.02.20

ダショー・ニシオカ ブータン農業の父

<ブータン>
Photo_4ブータンシボリアゲハという美しい蝶がいる。名前の通りブータンのヒマラヤ山脈で1933(昭和8)年に発見され、大英自然史博物館で保存されたが、以後確認されておらず「秘蝶」とされていた。発見された場所が中国とインドの国境係争地帯に接しているため、長らく現地調査が行えなかった。しかし2011(平成23)年8月中旬、日本の調査隊により以前と同じ場所で78年ぶりに再発見され、飛来や産卵などの様子が初めてテレビカメラで撮影されて5頭が捕獲されたが、ワシントン条約の制約で直接日本に持ち帰ることは出来なかった。

この発見を受けてブータンシボリアゲハはブータンの国蝶に指定された。採集された5頭のうち雄2頭の標本が、2011(平成23)年11月に来日中のブータンの第5代ワンチュク国王から日本との友好の証しとして日本の調査隊に寄贈された。ワンチュク国王とペマ王妃は、東日本大震災の被災地・福島で祈りを捧げたり、多くの人々と触れ合ったりして日本中に感動を呼び起こし、お二人の端麗で気品のある姿から、当時ブータン・ブームが起きたことを覚えている方も多いと思う。

特に「GNH(Gross National Happiness:国民総幸福量)は、GNP(Gross National Product:国民総生産)より重要である」とするブータンの国是は、GNP(経済力)を国力として重要視する現代日本社会に対するある意味での警鐘になった感がある。このような国是は、ブータンがチベット仏教の国であることから発しているのではないかと思うが、知識がない。チベット仏教世界の歴史や文化がご専門の石濱裕美子先生が出版された「世界を魅了するチベット」(三和書籍)を読んで、そう感じているだけである。

2014(平成26)年3月に東京に出張した時、日本橋三越に立ち寄ったところ、日本橋街大学というイベントをやっていて、たまたまブータン展が開かれていたので覗いてみた。日本ブータン友好協会とブータン政府観光局が開いたものらしく、物産の展示やスピーチによるブータンの紹介があった。後から調べてみると日本ブータン友好協会は、1981(昭和56)年にヒマラヤやブータンとつながりのある川喜田二郎、桑原武夫、東郷文彦、中尾佐助、中根千枝、西堀榮三郎らが発起人となって設立されたものであった。

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     ブータン展(日本橋三越)        ブータン政府観光局による紹介

このようにブータンと日本は早くから交流があり、日本政府もJICA(国際協力機構)を通じて支援を行っている。JICAのホームページを見ると、JICAとブータンの深い関係や支援事業について紹介されているが、特筆されているのがダショー・ニシオカと呼ばれる西岡京治氏のことである。「ダショー」とは「最高に優れた人」という意味の名誉称号で、1980(昭和55)年に第4代ワンチュク国王により外国人として初めて西岡氏に贈られたものである。

この西岡京治氏の事績や人となりを知りたくて、彼について書かれた本を探したところ、日本児童文学者協会理事長をされていた故小暮正夫氏が「ブータンの朝日に夢をのせて ヒマラヤの王国で真の国際協力をとげた西岡京治の物語」(くもん出版)という著書を出版されていることが分かり、早速購入して拝読した。以下、小暮本に沿って西岡京治氏の生涯を追ってみることにする。

Photo_5 (クリックで拡大)

<ヒマラヤへの関心とあこがれ>
京治は1933(昭和8)年に日本統治時代の京城(現ソウル)に生まれ、終戦とともに日本へ帰国し八尾に移住した。八尾中学、八尾高校時代は植物採集にのめりこみ、農業に役立つ植物の勉強をしたいとの志望で、大阪府立大学農学部に進学した。教室主任は、京都大学農学部出身の植物学者で、探検家としても日本のトップクラスの中尾佐助助教授で、この中尾先生との出会いが京治のその後の人生を決めることになる。

中尾先生はフィールドサイエンス(野外科学)の手法を大事にしており、日本の農業とヒマラヤ地方の農業や生活文化とのつながりを探るために、ネパールやブータンに行って確認したいとの夢を、京治たち教室員に語られていた。そして1952(昭和27)年には、日本山岳会のマナスル登山隊派遣のための予備調査でネパールに行き、翌年マナスル登山隊の科学班員として、川喜田二郎大阪市立大学助教授と共に同行し、鎖国状態のブータン入国も企画したが未達に終わったというような土産話に、京治はヒマラヤへの関心とあこがれを強くしたという。

<西北ネパール学術調査隊に参加>
大阪府立大学農学部を卒業した京治は、そのまま大学院に残るとともに、大阪市立大学の研究生になり川喜田二郎先生の薫陶を受ける。川喜田二郎先生は、その名を冠した野外科学の手法であるKJ法で有名で、その著書「発想法」、「続発想法」は私も会社時代に精読して勉強し、いろいろな解析に使った思い出がある。その川喜田先生を隊長とする大阪市立大学西北ネパール学術調査隊が1958(昭和33)年に組織され、京治も参加した。ウィキペディアには、この時京治は大麦栽培史の空白を補完する重要な発見を行ったと記載してある。

京治はこの探検でネパールの奥地の村に入り、村人からの聞き取り調査や植物採集を行い、帰国後に標本整理やレポートのまとめを行ううちに、ヒマラヤの人々の暮らし向上を意識するようになる。また京治は登山サークルなどに招かれてヒマラヤ登山についての講演をすることになったが、その講演を聴きに来た一人の女性と知り合う。そして1961(昭和36)年春に修士課程を卒業して大阪府立園芸高等学校の教諭になり、年末にその女性、里子と結婚した。

<東北ネパール学術探検隊の副隊長>
翌1962(昭和37)年には、中尾先生を隊長とする大阪府立大学山岳部による東北ネパール学術探検隊が組織され、京治は副隊長として参加することになった。京治は里子を同行させたいと思っていたが、女性の参加を不安視する意見もあったので中尾先生に相談する。中尾先生は1958(昭和33)年にブータンに日本人として初めて正式に招かれて、日本の農業専門家派遣を要請されていたので、海外技術協力事業団(現JICA)のコロンボ計画に京治を推薦したい気持ちがあり、里子の同行に大賛成であった。

里子を交えた探検隊はめでたくヌプチュー登頂に成功し、京治と里子はその後二人で東北ネパールの調査旅行を行った。この旅行で京治たちは東北ネパールの人々との触れあいを深めることができ、小さな家を借りて滞在することもできたという。さらに自分たちがブータンへ派遣されるよう、インドのカルカッタへ行って総領事の東郷文彦夫妻を訪問する。ブータン王室と親しい総領事夫妻も、コロンボ計画で京治がブータンへ派遣されるよう支援を約束してくれた。

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<ブータンへ>
帰国後1年余り待ったが、事業団からコロンボ計画の農業指導者としてブータンへの派遣決定通知が京治に届き、経由地のインドのビザもとれたので、1964(昭和39)年4月23日に二人はブータンへ旅立った。ブータンにおける京治たちの拠点は、西部にあるパロという盆地であった。ブータンの農業の課題は食糧の自給率が低いことで、農業国なのに60%くらいしか自給率がなく、不足分はインドからの輸入でまかなっていた。京治の使命はそのようなブータン農業の自給率を高めることであった。

パロの農業局は局長や職員がインドから派遣されたインド人で、ブータンの農業事情を一番よく知っているのは自分たちであるという態度で、日本から農業指導にやってきた京治を歓迎する雰囲気ではなかったらしい。京治はブータン政府と掛け合って小さな試験農場を提供してもらい、つけてくれた3人の少年実習生にまず大根の栽培を教えた。日本から持ち込んできた大根の種を用いて京治が率先垂範して教えたところ、ブータンでは見たことがないような大きな大根が収穫できたという。

2年目には試験農場を水はけのよい高台に移し広さも3倍になる。この頃になると試験農場のうわさが広まり、知事や国会議員が訪れるようになり、彼らの助言で試験農場で採れた野菜をパロ城の前で展示し、評判が高まったという。さらに農業局は織物用の糸質向上のため養蚕農場を造る計画を立て、京治たちは東ブータンの調査を行った。京治にとっての気がかりは2年という任期が迫ってきたことであったが、1966(昭和41)年が明けて、うれしいことにブータン開発庁から京治の任期延長の要請が出され、ブータンでの仕事を継続できることになった。

<パロ農場>
さらに京治はブータン国王から広い農場用地の提供を受け、経営を任されることになった。この農場はパロ農場と名付けられ、大根、キャベツ、ジャガイモ、玉ねぎ、アスパラガスなどの野菜を栽培し首都ティンプーで販売するようになる。また水田には低温に強い日本の稲の改良種が育ち、高台の果樹園には柿、桃、ナシ、リンゴ、ブドウなどの苗木を根付かせた。日本の海外技術協力事業団も京治を支援し、実習生の受け入れや耕運機、脱穀機、もみすり機、精米機などの農機具の供与が行われた。

パロ農場が3年目に入って野菜や稲が順調に育っていた秋、モンスーンがもたらした集中豪雨によりパロ農場は土石流で流されてしまう。京治は日本へ飛び、事業団に緊急の援助を頼んだが年度途中で緊急支援が得られず、つてを求めて総理大臣に緊急援助を求めた。総理大臣はこれを聞き入れてくれ、翌1969(昭和44)年1月に土木機械や農業機械の援助が行われ、復旧作業がはかどったという。小暮本には総理大臣名は出ていないが、年表で見ると佐藤榮作首相の時期である。

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         パロ農場(小暮正夫本から)

<並木植えの普及>
パロ農場では稲作に日本で昔から行われている縦横に一定間隔で植える「並木植え」を採用したが、ブータンでは勝手気ままに苗を植えるため、手押しの除草機が使えないとか生育が良くないなどの課題があった。京治たちは何とかして並木植えを普及させたかったが、農家が応じるまでには時間がかかった。1971(昭和46)になって初めてパロ農場以外の田んぼで並木植えの田植えが行われた。ブータンの農業史に残る記念すべき出来事だったという。

しかし普及するにはこの田んぼの収穫が良くなければならない。京治は祈るような気持ちで稲の生育を見守った。結果は並木植えに変えただけで40%の増産になり、京治は胸をなでおろした。パロ盆地では数年のうちに約半数の農家が並木植えに変わった。現在ではパロ盆地の8割が並木植えの田植えになっている。田植えよりつらいといわれる草取りが楽になり、収穫が三割も四割も多くなるので、その効果を誰もが認めたからであろう。

<シェムガン県の開発>
京治の業績を高く評価し、パロ農場設立を後押ししてくれた第3代ワンチュク国王が1972(昭和47)年に45歳で早逝された。新国王は16歳で即位したが英国で教育を受け、農業の開発にも積極的であった。1976-1980(昭和51ー55)年の5年間は、京治は国王直々の立案によるシェムガン県の開発プロジェクトの責任者となった。シェムガン県は農業の条件が悪く、険しい山と谷がジャングルで覆われ、住民の多くは焼畑農業に頼っており、ブータンの中でも特に貧しい地域であった。

このプロジェクトにおける京治のミッションは、移住しながら焼畑を繰り返す焼畑農家を一か所に落ち着かせ、暮らしの安定と向上を行わせることであった。最大の難関はこの地域の住民に水田を開き、定住するよう説得することである。中尾先生が見込んだ京治の実直で忍耐強い性格がこの難題を次第に克服していき、村人との800回に及ぶ話し合いの結果、水田や農業用水施設の造成、吊り橋の架け替えによる流通の促進、食生活の改善などが進んだ。

この結果シェムガン県に開いた水田は60ヘクタールに及び、それまでの50倍になったという。極貧地域は生活が安定し、学校ができ、診療所もできた。国王も開発の様子を二度にわたって視察され、京治たちスタッフと村人たちを励ましたという。国際協力事業団(JICA)と名称を改めた日本の事業団も、シェムガン県の開発に大型土木機械を援助している。二児の母になった里子は子供の教育を考え、シェムガン開発が始まるときに日本へ帰国し、日本とブータンの民間のパイプ役を務めるようになった。

<「ダショー」の称号を受ける>
ダショー西岡(小暮本から クリックで拡大)
Photo_21980(昭和55)年、京治は長年のブータン農業への貢献を評価されて、国王から「ダショー」の称号を受けた。ダショーとは英語のベストを意味し、「最高に優れた人」という意味である。この称号は県知事や最高裁判所の判事クラスしかもらえない称号で、ブータンでは最も栄誉ある称号であった。授与式もこの国の伝統にのっとって、授けるものと、受けるものとの、二人だけで行われる。国王は京治に、肩から掛けるえんじの布と、銀の鞘におさまった剣を授けたという。

パロ農場は発展して国営総合農業センターになり、農業機械化センターもできた在ブータン20年目に入った時、国際協力事業団から京治に派遣の打ち切りの知らせが入る。しかし本人や国王からの任期延長希望が認められ京治の活動は続いた。翌年ブータンに視察に来た事業団の調査団は、「地方の実験農場に過ぎなかった配属先が、今は国家レベルの農業開発政策を立案実施する一大総合農場となり、専門家も爵位を与えられ、国王および国民から絶大な信頼を得ている」と報告し、国際協力事業の成功例と讃えたという。

<国葬で送られる>
1992(平成4)年3月21日にブータンから里子に国際電話が入った。ダショー・ニシオカが急逝したとの知らせであった。「お葬式はどうされますか」との問いに、里子は動転しながらも、「パロでお願いします、ブータンのお葬式のしかたでお願いします」と答えた。ダショー・ニシオカの葬儀は里子と娘、葉子の到着を待って3月26日に行われた。ブータン農業大臣が葬儀委員長を務める国葬であった。京治を慕う5千人に及ぶ人々がブータン全土から弔問に集まったという。ブータンは国をあげて京治に感謝の心を捧げたのである。

葬儀の後、京治の事務室を訪れた里子は、京治にあてた一通の電報を見た。京治が開発を主導したシェムガン県を視察した国王の伯父がパンバン村から打った電報で、「あなたが始めた開発の仕事は今実を結んでいる、村人たちはあなたの献身的な働きがなかったら、自分たちの進歩はなかっただろうと言っている、村人はあなたが再び村を訪れてくれることを心から待っている」という内容であった。この電報が打たれたときは、京治は日本にいたので、戻ってすぐこれを読んだに違いなかった。

翌1993(平成5)年、パロで京治の一周忌が行われ、里子と葉子もパロとパンバン村から招待を受けた。法要後、里子たちは農業大臣にシェムガン県訪問をお願いし、最初の試験農場の実習生で、今は農場の所長になっている二人に同行してもらってパンバン村を訪問した。案内役の郡長は長いつり橋に里子たちを案内した。そして「ダショーがかけてくれた17本のつり橋のうち一番長い橋で、ニシオカ橋といいます。国王の伯父がパンバンに来られた時に正式に名付けられました」と説明した。

里子はニシオカ橋のたもとから河原におり、村人や学校の子供たちとお経をあげ、京治の遺骨の一部を川に流したという。ヒマラヤの雪どけ水をあつめたこの川は、インドの平原を経てインド洋へそそいでいるのであった。

<所感>
小暮正夫氏の著書「ブータンの朝日に夢をのせて」から西岡京治氏の事績を追ってきた。小暮氏は児童文学の作家だけに、子供にも分かるように読みやすく書いてあるので、3時間もあれば読了できる。ブータンで西岡氏が行った農業指導は、壮大な建築や長大橋建設の指導のような派手な活動ではなく、どちらかというと地道な活動であるが、農民や作物相手の活動なので人間的要素が多く、読み終えるとさわやかな感動を覚える。西岡氏の考えは「身の丈に合った開発」ということであるが、農業指導とはまさにその通りであると感じた。

このようにブータンで「ダショー」の称号を得るまでになった西岡京治氏のお名前は、日本ではあまり知られていない。1989(昭和64)年の「大葬の礼」の時のブータン国王の来日時は、民族衣装を着用された国王の動向は報道されたが、同行していたダショー・ニシオカのことはあまり報道されていなかったと思う。日本ではあまり知られていないが、現地ではだれでも知っていて尊敬されている日本人という意味では、以前のウェブログ「日台交流の架け橋~八田與一の遺産」で触れた八田與一技師もそうであった。

  • 日台交流の架け橋~八田與一の遺産

    真の国際協力を成し遂げたと思えるお二人に共通しているのは、為そうとしている事業に対し強い使命感をもっていること、現地の人々に対する思いやりが強いこと、技術屋として確固たる信念をもっていること、周りの人から絶大な信頼を得ていること、逆境にあっても粘り強く耐えていくこと、などがあげられるのだろう。特に、台湾では「八田路」、ブータンでは「ニシオカ橋」と、お二人の名前を冠した道路や橋が出来ていることが、現地の人々から今なお慕われていることを如実に示している。

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